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馬郡探訪02 「遠州屋伝兵衛」

春日神社の動画作成に際して少し下調べをしたのですが気になる名前がありました。「遠州屋伝(傳)兵衛」。春日神社の南側の灯籠に、「江戸小舟町 遠傳」と刻まれています。そのまま見過ごしてしまいそうですが、「遠州屋伝(傳)兵衛」の略称です。

なぜ、江戸の人間が灯籠を寄進したのか?灯籠は文化5年(1808)に建立されています。

興味が沸いたので調べてみました。ダメ元で先ずはネットサーフィンです。

正直、インターネット検索で遠州屋伝兵衛が見つかるとは驚きでした。お堅そうな名前の情報・システム研究機構のサイトに、edomi(エドミ)ショッピングの項目があり、江戸の観光やショッピングが楽しめる仕組みですが、そこに遠州屋伝兵衛、遠州屋新兵衛、尼屋伝次郎の名前が見つかりました。江戸の時代にもショッピングのガイドブックのような広報物があったことにも驚きですが、それを現代においてもネットで閲覧できる粋な計らいにも少し感動してしまいました。

遠州屋伝兵衛が江戸のどういう職業で何処に住んでいたのか?

江戸の地図も付いており以下にアドレスを付けておきますので直接ご確認ください。

 

小舟町二丁目 遠州屋伝兵衛 鰹節塩干肴問屋

http://codh.rois.ac.jp/edomi/shopping/entity/314

※出典元は文政7年(1824)に大阪で出版された江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)で、江戸市内の買い物や飲食関連の商店約2600店を紹介するガイドブックです。

 

 

筆者が見た資料には373人のうち8人分しか記載されていなかったのですが、尼屋伝次郎も寄進者に含まれていると推察します。大般若経600巻全てを筆者自身が見る機会は無いでしょうから、偶然とはいえ筆者が必要としていた伝兵衛、新兵衛の2人が例示されていたことに感謝です。

 

昔から歴史・時代小説や謎解きミステリーが大好きなので、こういう展開は堪りません。調査意欲をそそられます。

 

諸先輩方の調査(研究)資料によると、寄進された経巻の初巻から二十巻まで遠州屋源八の名が続き、第七巻には為書の下に江戸京橋五郎兵衛町遠州屋源八と馬郡村刑部庄次郎が連署され、詳細は省きますが、遠州屋源八の出自は馬郡の刑部庄次郎家であると解説しています。(刑部安四郎著「引佐山徘徊」参照。)

ちなみに、源八の名は「江戸買物独案内」には出て来ません。「江戸買物独案内」のスポンサーにはならなかったということでしょう。源八が住んでいた江戸京橋五郎兵衛町(五郎兵衛町は昭和6年(1931)に廃止。現在の東京都中央区八重洲二丁目、東京駅八重洲口近辺か?)は伝兵衛や新兵衛が住んでいた小舟町(東京都日本橋小舟町)とは2キロと離れておらず、大般若経の寄進者で名を連ねていることからも、伝兵衛、新兵衛、源八等が商人仲間・同郷仲間として交流があったと考える方が自然です。

 

馬郡の隣町である坪井町の稲荷神社。ここにも遠州屋伝兵衛の痕跡がありました。

南側から境内に入ると立灯籠が左右に見え、朱色に塗られた両部(りょうぶ)鳥居、石造りの稲荷鳥居へと続いています。稲荷鳥居の石柱には文化十三年丙子年(1816)十一月吉日 遠州屋伝兵衛奉献 江戸小舟町尼屋伝次郎とどでかく刻まれており、約200年経った現在でも確認することができます。

 

鳥居手前の灯籠には左右とも「正一位稲荷大明神」と刻まれています。左が文化2年(1805)、右が嘉永2年(1849)の建立と刻まれているようですが、時代の経過もあり読みづらい状況でした。ただ、左灯籠側面に「江戸小舟町」と刻まれていることは確認できました。では、江戸小舟町の誰なのか?その答えは、江戸小舟町遠州屋新兵衛が施主であると「浜松市文化財ブックレット 東海道を歩く(2014浜松市発行)」に書いてありました。余談ですが、小舟町八雲神社の天水桶は、江戸の魚問屋仲間の遠州屋新兵衛他10名によって文化8年(1811)に奉納されたとの記録もあり、商人達にとって神社は崇敬される存在だったことが伺われます。

遠州屋伝兵衛の事績を時系列で並べると、1806年 大般若経の寄進、1808年 春日神社灯籠建立、1816年 稲荷神社鳥居建立となり、春日神社灯籠建立から稲荷神社鳥居建立まで8年の開きがあるものの同じ遠州屋伝兵衛本人と考えて間違いなさそうです。

 

遠州屋伝兵衛、遠州屋新兵衛、尼屋伝次郎は江戸小舟町河岸に鰹節問屋仲間として「濱吉組」に所属し、薩摩、土佐、紀州等の「下り節」を扱っていた商人だったようです。買物独案内の別の頁には、伝兵衛は生布、海苔などの問屋としても記載されています。

 

遠州屋伝兵衛らはこのように、馬郡や坪井の地に相当な額を奉納していましたから、馬郡・坪井に縁のある人だったことは間違いないでしょう。

篠原地区の石造物の寄付者に「江戸」と刻まれたものが8件あるそうです。

当時の馬郡、篠原地区は半農半漁で漁業関係がより活発に行われており、海産物を通して江戸との交流が盛んに行われ、馬郡町あるいは篠原地区出身者が、家業繁栄に留まらず、ふるさとへの想いから地元の発展を強く祈念していたことは、多くの寄進を通じても伺われます。

 

時は十一代将軍家斉の時代になります。江戸時代後期の始まりに位置する文化(元号)の時代は、町民文化が顕著に発展した時期とされています。

馬郡を故郷とする多くの商人達が江戸のど真ん中で活躍していたことを想像するだけでも歴史のロマンを感じます。馬郡町民として誇らしく思いますが、このまま歴史から忘れ去られてしまうのではないかという懸念も少なからずあり、一人でも多くの方に興味を持っていただけるよう今回紹介させていただきました。

いつもとは違った視点で町内を散策してみてはいかがでしょうか。

 

※ここまで書き終えたところで、遠州屋伝兵衛の資料が他にもあるよ!とお聞きしました。少し下調べをしてから紹介しますので、この続きはしばしお待ちください。

 

※調査に際しては、以下の資料を参考にさせていただきました。

 

1.浜松市文化財ブックレット8「東海道を歩く」2014浜松市(発行:浜松市市民部文化財課)

2.はままつ歴史発見(神谷昌志著 発行:静岡新聞社)

3.遠州敷地郡馬郡村 昔のふるさとをたずねて(鈴木義雄著)

4.引佐山徘徊(刑部安四郎著)

5.浜風会会報第33号 しのはら歴史便り(発行:篠原協働センター同好会「浜風会」)
https://hamakazekai.com/
    

6.わがまち文化誌 浜風と街道(発行:浜松市立篠原公民館)

https://hamakazekai.com/

 

春日神社(馬郡町)


左側の灯籠に「遠傳(伝)」と刻まれている。

稲荷神社(坪井町)


稲荷鳥居(石造り)の石柱(左)に文化十三年丙子年(1816)十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献、右に江戸小舟町尼屋傳次郎と刻まれている。灯籠には「江戸小舟町」の文字が見える。