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馬郡探訪05「愛称標識」〜比丘尼塚等〜

愛称標識という言葉があります。ネットで検索すると浜松市関連の情報しかヒットしないので、もしかすると浜松市で創られた造語なのでしょうか。

浜松市中央図書館の浜松市文化遺産デジタルアーカイブから引用すると次のように紹介されています。

 

「浜松市内を歩いていると、坂や道や橋の名前を記したり、建物などの跡地であることを示す標識を目にすることがしばしばある。これは愛称標識と呼ばれ、それぞれの町の歴史的ないわれのある坂、道、橋、場所などを将来に伝えてゆくために、浜松市や地域の自治会連合会が設置しているもので、市全体では千三百本を超えている(『のびゆく浜松』中学校編 平成十五年四月発行)。標識には浜松市が設置した擬木(コンクリート製)や木製のものと、地域の自治会連合会の愛称標識設置委員会が設置した木製のものの二種がある。」

 

篠原地区においても昭和63年(1988)に篠原地区愛称標識設置モデル事業として設置に向けた検討が進められ42箇所(馬郡町は10箇所)に設置されています。当時設置された標識については、平成元年(19893月発行の「わたしたちの愛称標識 なまえとその由来(篠原地区愛称標識設置委員会)に詳しく紹介されています。

その後、平成22年(20106月に愛称標識の現地調査が行われ、実在するもの11本、形を変えて実在するもの2本、すでにないもの29本となり、木製の標識のため、その多くが朽ち果ててしまいました。そこで、歴史的価値が特に高いもの、伝説的に面白いものに集約して残すこととなり7つの標識(高札型3カ所、棒標識4カ所)が選ばれました。馬郡地区では、伝説的史跡として「比丘尼塚」が、篠原教育の原点として「馬郡学校跡」が選ばれています。(しのはら歴史便り 浜風会会報第21号)

それ以外の標識は場所的制約もあり廃棄することになりましたが、その当時実在が確認できるものはそのまま残されており、さらに見苦しくなった時点で処分することにしたようです。

そこで、今回、馬郡町を中心に愛称標識の状況を調査することにしました。その結果、令和6年(20233月末現在で棒標識が5本、高札型(説明付き看板)が2本実在することが確認できました。今回は、現地で撮影した写真と、そのいわれも含めて紹介したいと思います。

 

なお、高札型は、「ツバメのお宿」など、それはそれでドラマがありそうなのでまた別の機会に紹介したいと思います。



①比丘尼塚

 

平安時代のころ、東国へ旅立った武者の後を追って、その妻が侍女をともない東国へ向かう途中、この馬郡の地で不幸にも病に倒れ、亡くなってしまいました。

主人思いの侍女は髪をおろし、尼となって主人の冥福を祈り、菩提を弔っていましたが、彼女もまた病により不帰の人となってしまいました。

住民は彼女の心根を哀れに思い供養したところが、いつしか比丘尼塚と呼ばれるようになりました。

この塚にあった小さな森は女性特有の優しさを漂わせていましたが、昭和43年〜44年にかけての農地整理により失われ、今ではその面影もありません。』

(「わたしたちの愛称標識なまえとその由来」から引用)

平安時代、大河ドラマでも放送中ですが紫式部や藤原道長らが活躍した時代です。歴史というより伝説や伝承に近いストーリーですが、ここに小さな森があったことは間違いありません。このような物語が愛称標識の形で残されていくことは愛郷心を育む一つのきっかけにもなりますし、標識のある風景はその土地への愛着が湧きますね。

比丘尼塚は何処にあるのだろうと探し回っていたのですが、何のことはない、如意寺南側の畑の中に建っていました。調査したところ平成238月に新しく建て替えており少し傾いてはいるものの綺麗な状態で残っていました。

 

②山伏塚

 

 

戦国の世、勧進と修行の山伏の一行が全国行脚の途中馬郡村にさしかかったとき、山伏の先達が急な病に倒れ不帰の人となってしまいました。山伏達は悲しみに暮れましたが、先達の志を継いで全国行脚をすすめるため、街道の一隅に小さな祠を建て供養ののち旅立って行きました。

山伏の死を哀れと思った住民は、月の15日を命日と定め供養してきましたが、その祠はいつしか大木が繁り、山伏塚と呼ばれるようになりました。

(「わたしたちの愛称標識なまえとその由来」から引用)

 

如意寺の南側を東西に伸びる道が「富士見通り」になります。その通りを西方向にしばらく歩くと左側に朽ち果てた棒標識があります。西から向かうと住宅の死角に入り少し見つけにくいかも知れません。棒標識の樹皮がめくれ右三分の一だけ残った文字で「山伏塚」と書いてあったことがわかります。山伏塚という文字が頭にインプットされていればという条件付きですが。残すべき標識には含まれていませんので、見学されたい方は早めがオススメです。

比丘尼塚や山伏塚の標識が無ければ、ここに森があったとは信じられません。約60年前のことですが、塚の広さや高さなども良くわかっていません。年配の方に聞けば当時のことがわかるのかも。記憶にある方は是非ご教示を!情報をお待ちしています。

 

「①比丘尼塚」や「③山伏塚」については、以下の資料にも記述がありました。

 

「覚え書き ふるさと馬郡の歴史(刑部達雄氏著)」(平成7年(19956月発行)

『塚という名前がついており伝説もあるが、これは、多分古墳であったと思われる。せまい農地の中に山伏や比丘尼を祀るために大きな塚を作ることは考えられない。

地図を見ると弁天島海底遺跡、白石山遺跡、大山遺跡(舞阪駅西方300m)と山伏塚、比丘尼塚は一直線上に並んでいる。この塚は農地や宅地にしてしまったが残念なことである。塚は「メシ」の種にはならないが、塚の存在は、人々に心の潤いを与え、馬郡にも文化があったことを示すことになる。文化遺産を守っていくことは、郷土を愛することにつながる。

「遠州敷知郡馬郡村 昔の姿をたずねて(鈴木義雄氏著)」(平成23年(20117月発行)にもこんな記述があります。

「東馬郡の如意寺の近くに、昭和40年代の耕地整理が行われる前まで、畑の中に二つのこんもりとした小古墳状の森がありました。東側のものは比丘尼塚、西側のものは山伏塚と呼ばれ、今は標識だけが残っています。』

 

「比丘尼塚」と「山伏塚」について、刑部達雄氏が古墳の可能性を示唆しているのが非常に興味深いです。

鈴木義雄氏も、「こんもりとした小古墳状の森がありました」と述べておられます。

残念ながら筆者は、現存していた当時の「比丘尼塚」や「山伏塚」は見ていません。ただ、塚のある周辺の風景からしてこの二つの塚は人工的なものだったのではないかと想像します。古墳の可能性は十二分にあるのではないでしょうか?

山伏塚は長い年月が経ち棒標識も朽ち果ててしまいましたが、かろうじてその存在は確認できました。比丘尼塚は平成23年に建て替えられたこともあり写真のとおりしっかりと残っていました。

伝説や言い伝えにせよ、歴史的価値のある古墳であったにせよ、ここに塚があったことを示す標識の存在は素晴らしいと思います。何もない馬郡に少しだけ文化の香りが漂った場所。特に「比丘尼塚」は、10年後もその先もずっと残していきたい棒標識であり風景です。

③馬郡学校跡

 

『明治66月に舞阪小学校の馬郡村分校としてここに設立されました。その後、一時廃校となったりしましたが、明治223月に馬郡村と篠原村の合併により、舞阪小学校と分離され、明治25年7月に篠原小学校馬郡分校となりました。その頃は坪井町、馬郡町の1,2年生の授業が行われ、3年生からは篠原小学校へ通っていました。昭和23月に廃校となりました。

また、この場所は江戸時代ごろまで、この付近の守り本尊として村人から厚く祀られていた馬郡観音堂があった場所でもあります。』

(「わたしたちの愛称標識なまえとその由来」から引用)

馬郡町内を東西に走っている旧東海道の北側に「史跡引佐山大悲院観音堂跡」と刻まれた史跡碑が建てられていますが、馬郡学校跡の標識はその北側の奥にある公園の一角に建っています。平成23年(2013)に歴史的価値が特に高いものとして、将来建て替えを前提に引き続き残し末長く維持していくことが決定されています。

設置時期を調査したところ、平成23年(2013)に「河岸跡(篠原西)」、「石神様(坪井)」、「比丘尼塚跡(馬郡)」の3つが建て替えられていますが馬郡学校跡の棒標識を建て替えたとの記述は見つけられませんでした。

Googleマップで馬郡公園を見てみると、投稿された写真に傾いた「馬郡学校跡」の標識を確認することができます。周りの樹木もまだ小さくて空が広く見えます。2019年から2020年にかけて撮影された写真のようですが、現在の「馬郡学校跡」の棒標識と比べてみると標識の幅も文体もスリムになった印象です。2020年に写真が撮られた後に建て替えられたのは間違いなさそうです。(投稿写真は著作権で保護されているため直接Google Mapで「馬郡公園」を検索してください。投稿された写真が閲覧できます。)

今回は、馬郡公園の投稿写真から傾いた標識を見つけることができました。何気ない日常の風景も写真に収めておくことで貴重な財産を残すことにも繋がります。記録として残すことで記憶を呼び起こす作用もあります。馬郡町ホームページもそんな存在でありたいと願い、町内のありふれた風景を撮り続けていきたいと思います。

さて、現在の馬郡学校跡は、如意寺から土地を借用する形で町立児童遊園地として浜松市に登録、馬郡町自治会が管理しています。

廃校となってから100年近く経ちましたので学校があった形跡はありませんが、形を変えて子ども達の遊び場として活用されており、毎月第4日曜日の朝には東馬東組住民の手により公園内の清掃、草刈りが行われています。

④富士見通り

 

昭和42年からの土地改良事業によりできた新道で、坪井町から馬郡町へ続いています。

この辺りは馬郡町の中で富士山を眺めるもっとも良い場所であり、空気の住んだ早朝の富士山は大変美しいものです。

(「わたしたちの愛称標識なまえとその由来」から引用)

こちらの標識は東西に伸びる富士見通りの西側の十字路に設置されています。朽ちてはいますが電信柱に寄り添うように直立した形で建っていて文字も何とか読み取れました。名前のとおりですので説明の必要はないですね。この富士見通りの標識がある十字路を少し西に進むと馬郡町集会所「つどいの家」があります。

富士山を眺めるにはやはり秋から冬にかけての早朝がオススメです。北東方向になりますが富士山まで直線距離にして約125kmありますので、それほど大きく見えるわけではありません。

JR東海道本線越しになるため送電線等が気になるという方は、防潮堤がオススメです。

⑤太佐舟道

 

太佐とは地名ですが、その地名のいわれはわかっていません。しかし、漁場である浜への往来でにぎわった道と思われます。昭和20年代、大漁にわいた浜へ急ぐ人達の足音は、今も耳に残っていると、古老は語っています。』

(「わたしたちの愛称標識なまえとその由来」から引用)

 

街のでんきやさん「プロスおさかべ」前の十字路の南西角地に太佐舟道の棒標識は建っています。浜での往来で賑わった道という印象は全くありません。現在、馬郡町自主防災隊が毎月消火訓練を行っている場所でもあるのですが、標識があることを訓練中は全く気づきませんでした。ここにも歴史がありました。

地下道を潜って海まで散歩してみましたが、浜名バイパスや防潮堤ができたこともあり当時とはだいぶ風景が変わっているはずです。太佐舟道の棒標識は残すべき標識には選ばれていません。いつかは消えゆく運命にあります。ここに太佐舟道があったことを写真に残しておくことは意義あることではないかと思い、他の棒標識とともに本欄で紹介することとしました。

馬郡町で現存する棒標識は以上です。

ただ、もう一つだけ紹介したい棒標識があります。比丘尼塚を探しに行ったときに最初に見つけた棒標識です。

如意寺の南側で富士見通り沿いのわかりやすい位置にあるのですが住所が坪井町になります。

⑥石神様

 

 

およそ500600年位前のことでしょうか、昔の東海道(この頃の東海道は東光寺の北を通っていたと言われています。)に面した畑のなかに金銀財宝を埋め、その上に大きな石をのせたという話が言い伝えられています。その石は地上に出ている部分よりも地下へ行くほど大きく広がり、深さはどれほどかわからないということです。

今までに何人かの人が掘り出そうとしましたが、失敗し、その人達がまもなく不幸にあったことから、たたりではないかと恐れられています。いまは大事に安置されていますが、お参りした人達にはご利益(虫封じ、病気、その他)があったと言われています。

  (「わたしたちの愛称標識なまえとその由来」から引用)

 

筆者も俗物につき金銀財宝が大好きですが、そんなお宝が眠っているようにはとても思えない場所です。祟りも怖いし、お参りをしてご利益を期待した方が無難なようです。

棒標識は新しそうに見えますが、伝説的に面白いものとして復活させようということになったらしく、比丘尼塚と同じ時期(平成238月)に建て替えられています。

以上、馬郡町の5つの棒標識、そして坪井町にある石神様の紹介でした。太佐舟道だけ若干離れた位置にありますが、富士見通りの棒標識がある十字路をそのまま南に向かうと太佐舟道のある十字路に辿り着きます。いずれも徒歩圏内にあるため朝のお散歩コースにいかがでしょうか?

歴史と伝承の残る場所、天気が良ければ富士山が見えるかも知れません。

富士見通りから見る富士山

最後になりますが、愛称標識については、浜風会の皆様のご尽力により篠原地区自治会連合会の支援を受けながら内容の吟味および新設、建て替えを行なっています。

そのため、愛称標識の情報収集にあたっては浜風会の皆様に多大なるご協力いただきました。この場を借りて感謝申し上げます。

 

 

参考文献

①わたしたちの愛称標識名前とその由来 篠原地区愛称標識設置委員会 平成元年3月発行
②浜風会会報 しのはら歴史便り 第21号 https://hamakazekai.com/

③「覚え書き ふるさと馬郡の歴史(刑部達雄氏著)」平成76月発行

④「遠州敷知郡馬郡村 昔の姿をたずねて(鈴木義雄氏著)」平成237月発行