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馬郡探訪06 「舞阪駅(旧馬郡駅)」について

「坪井町を過ぎ、馬郡町に入ると、馬郡観音、東本徳寺、西本徳寺などの寺院が沿道に続き、やがて浜名バイパスから雄踏町へ抜ける道路との交差点には春日神社の杜が見える。この辺りからようやく退屈な道から解放される。」

  

「東海道五十三次を歩く 3 歴史街道ガイド」というガイド本に書かれた一節です。地元民としては苦笑いするしかありませんが、馬郡町を端的に表しているとも言えます。

そのあとの文章は「まもなく美しい濃緑の松並木が始まり、1kmばかり続く。松並木の途中には舞坂宿を示す新しい碑が立つ。」と続きます。

 

今回探訪しようとする舞阪駅は、松並木に入る手前、旧東海道から少し北側に入った位置にあります。

それでは舞阪駅に至るまでの歴史を遡ってみたいと思います。

 

1888年(明治21年)91日 :馬郡駅として開業(官設鉄道浜松-大府間の開通時)

1891年(明治24年)11月1日:馬郡駅から舞坂駅に改称

1940年(昭和15年) 61日:舞坂駅から舞阪駅に改称

1971年(昭和46年)426日:貨物の取扱いを廃止

1986年(昭和61年)111日:荷物の取扱いを廃止

1987年(昭和62年)41日:国鉄分割民営化、東海旅客鉄道(JR東海)の駅となる。

2003年(平成15年)1115:橋上駅舎、南北自由通路完成(浜名湖花博関連事業)

2005年(平成17年)4月:自動改札機設置

2008年(平成20年)31日:TOICAのサービス開始

 

舞阪駅ですが最初は馬郡駅でした。舞阪駅の所在地が馬郡町ということで、そのまま馬郡駅と名付けられました。その後、馬郡駅→舞坂駅→舞阪駅と駅名の改称が行われていますが舞坂駅に改称されたのがいつだったのか文献によってその時期が異なります。

 

舞坂駅の改称①:1888年(明治21年)121

舞坂駅の改称②:1891年(明治24年)111

 

どちらが正しいのか調べてみましたが、馬郡駅を開業してから3ヶ月後の188812月とする書籍が多い印象でした。

 

しかしながら筆者は1891年(明治24年)11月1日とする説が正しいのではないかと

考えています。その根拠は、舞阪町史中巻の85ページに「明治219月1日、浜松・大府間が開通、この時西遠地区には浜松、舞阪、鷲津の三つの停車場が設けられた。舞阪駅は、開設時には馬郡駅であったが、明治24111日に舞坂駅となり昭和15年に舞阪駅となった。」とあり、その出典根拠(「日本国有鉄道百年史 年表」付録「駅名改称一覧」日本国有鉄道 昭和47年)まで明記されているからです。

念の為、図書館に行き同書籍を確認したところ、

駅名改称一覧の舞阪の欄に

「舞阪(東海道本線) 馬郡→明24.11.1 舞坂→昭15.6.1舞阪」

と確かに書かれていました。

本家本元(国鉄)の記録なので間違いないのではないでしょうか。

 

舞坂駅はこのあと舞阪駅に改称されるまでに49年も要しています。正直馬郡駅がたった3ヶ月で改称したとは馬郡住民としては心情的にも寂しすぎます。

 

舞阪町は、1889年(明治22年)41日の町村制施行に伴い誕生しています。この新たな地方制度は旧来の町村の大幅な統廃合を前提として進められ、「舞坂宿」は長十請新田と馬郡村字五貫田の一部を合併し、同年41日から「舞阪町」として新たな歩みを始めることになりました。(舞阪町史中巻)

馬郡駅を舞坂駅に改称した理由は定かではありませんが、舞阪の人々の強い働きかけや、東海道の30番目の宿場として知名度の高い「舞坂」が良いと判断されたようです。

そして、駅名が現在の舞阪駅になったのは1940年(昭和15年)61日です。

 

明治、大正そして昭和に入ってからも「舞坂」の文字が使われつづけたことになります。舞阪町は、町村制施行に伴い「阪」の字をもって正式名称とすることを決定し舞阪町役場の標札をかかげ、静岡県を通じ内務省に対しても「舞阪町」の文字を正式とする旨の申請を提出、以後全ての公文書を「舞阪」とすることが決まりました。このため舞阪町では当局に対し、再三にわたり訂正方を陳情しましたが、容易に改められることはありませんでした。「開業時の駅名であるからみだりに変更は出来ない・・・」との理由だったそうです。しかし昭和に入ってさすがの鉄道省も時代の流れに抗しきれず舞阪町の「字句改訂陳情」を受け入れ改訂に踏み切りました。(浜名湖・自然と歴史と文化)

舞坂駅から舞阪駅に改称するまでに何と49年も要したことになります。

開業時の駅名は馬郡駅ですし、馬郡駅から舞坂駅に改称されたのが3年後(3ヶ月とする説もあるが)ですので、すでに変更した実績がありますよね?とツッコミを入れてみたくもなります。

影の薄い馬郡駅が何だか哀れに感じられましたので、馬郡駅という駅が確かに存在したという歴史的事実を、馬郡の住民だけは忘れてほしくないなと思い紹介させていただきました。

  

さて、明治時代に日本に鉄道が導入された際には、今の「駅」(旅客の乗降又は貨物の積卸しを行うために使用される場所)に当たるものも含め、列車が止まる場所は皆停車場(ていしゃば)と名付けられていたそうです。そのことから舞坂駅周辺も停車場と呼ばれるようになりました。(鉄道用語事典によれば停車場(ていしゃじょう)は駅と操車場と信号場とを総称したものとされています。)

  

停車場(舞坂駅)が発展したきっかけは、馬郡駅開設の翌年、舞阪町が誕生した明治22年の夏弁天島に海水浴場が開設され、浜名湖周辺の観光地の入り口駅として活用されたことが大きく一時期大いに賑わうことになります。しかしながら、1906年(明治39年)7月から夏季限定の弁天島駅が設置され、1916年(大正5年)9月には弁天島駅が常設駅となり弁天島駅が海水浴客の下車駅となりました。

一方、東海道線の開通後、浜名湖を利用する運搬船から貨車への荷物の積み下ろしが便利になるように、浜名湖より舞坂駅北側まで運河が開かれて、船つき場が造られました。浜名湖周辺にある養鰻場の鰻の出荷や鰻のえさ(冷凍魚)は全て船で運ばれて舞坂駅に揚げおろしされていました。舞阪駅に着くと魚の匂いが鼻についたとの話もあります。また、冬には庄内特産の白菜は「だんぺい船」と呼ばれた運搬船に満載されて舞坂駅より貨車で出荷され、大変賑わっていたそうです。

うなぎの最盛期には、業者だけでなく、駅員までが一緒になって積み下ろしにあたるほど多忙を極めたと言われています。

以上のように、大正末期から昭和の初め頃の停車場周辺は、遠洋銀行を中心に養鰻業者とうなぎに関連する企業等で活気に溢れていました。

 

しかしながら、戦争により停車場の町は大打撃を受けることになります。戦時経済体制のもとで主食増産の必要により、養魚場の池のほとんどが田に戻され、養鰻用飼料が統制の対象となり1943年(昭和18年)には鰻の生産が全てなくなりました。

それでも戦後、1949年(昭和24年)8月に水産業協同組合法に基づく浜名湖養魚漁業組合が発足するとともに養鰻は急速に復興し、1975年(昭和50年)には850ha余の池と、5,000トンの生産量を達成することになるのですから、先人たちの奮闘には頭が下がります。

一方で貨物は次第に自動車輸送に切り替えられ1971年(昭和46年)に貨物輸送が廃止、1986年(昭和61年)には荷物の取扱いが廃止されています。この頃から駅の役割が現在と同じ旅客輸送を中心としたスタイルに変化したと言えます。

舞阪駅北側にあった船着場も現在は埋め立てられており、当時の面影は残っていません。

 

当時、浜名湖岸に住む人の足である巡航船が運行されていました。宇布見橋の手前に巡航船の発着所(汽船場)があり、和田、白洲方面に6往復程度運行されていたようです。

戦前は船着場の少し北側の松下屋のところにありましたが、戦後は湖南高校南側の湖南書店、当時橋本屋から山崎(雄踏町)、白洲、協和、和田(庄内町)へ行く巡航船の発着が盛んで、舘山寺方面への交通の起点となっていました。朝晩は浜松の学校に通う学生に利用され賑わっていたそうです。

 

前回の馬郡探訪で馬郡地区に存在する「愛称標識」の紹介をしましたが、1988年(昭和63年)11月、馬郡町舞阪駅前自治会においても「停車場(駅構内に設置)」、「船つき場(舞阪駅前北遊園地内に設置)」、「汽船場(湖南高校南側付近に設置)」の3本の愛称標識を設置しています。

その後、駅前周辺の環境も変わってしまい、今はその標識も残っていないため、当時を想起させる道標もない状況です。


大正末期から昭和初年頃の地図等を参考に船つき場や汽船場などの位置関係がわかるようにイメージ図を描いてもらいました。文章よりはその当時の状況がご理解いただけるかと思います。

2003年(平成15年)になると浜名湖花博関連事業の一環として舞阪駅の南北の区画整理が実施され、橋上駅舎となり南北自由通路が完成し、現在に至っています。

豊橋方面に向かう際は、駅の改札を抜けると目の前がホームだったこともあり、橋上駅舎になったことでホームが無茶苦茶遠くなった印象がありましたが、駅の北側から入ることが可能となり駅北側の利用者の利便性は大幅に向上したことになります。

 

令和63月(浜名湖ガーデンパークは4月)から6月初旬まで浜名湖花博2024が開催されています。舞阪駅が橋上駅舎になったのが浜名湖花博2004の前年ですので21年が経ったことになります。

現在(令和5年撮影)の舞阪駅周辺

20年前と同じように電車・バスを利用して浜名湖ガーデンパーク(村櫛町)へ向かう場合は本数の多いJR舞阪駅を利用することになります。

浜名湖花博へ向かう道すがら宇布見橋を渡るまでの道沿いはかつて水路があった場所であり巡航船が行き交った新川や船着場のあった場所を通過します。

本ブログが花博への行き帰りの退屈しのぎにでもなれば幸いです。

 

花博が始まってから筆者は5回ほど現地を訪れました。人も多いですが花も多いです。平日であれば人も少なくスギ花粉の時期も去ったので花粉症の筆者も花の香りを.3楽しめる季節になったのがありがたいです。園内の花たちを動画にも残しました。動画ライブラリもご覧いただけたら嬉しく思います。

以上

参考文献

1.   舞阪町史 中巻

2.   日本国有鉄道百年史 年表 付録「駅名改称一覧」日本国有鉄道 昭和47年)

3.   駿遠豆・ブックス1 浜名湖・自然と歴史と文化 神谷 昌志氏著 明文出版社 昭和6011月発行

4.   駿遠豆・ブックス3 静岡県の鉄道 今と昔 海野 實氏著 明文出版社 昭和61年9月発行

5.   わがまち文化誌 浜風と街道 浜松市立篠原公民館編 平成元年3月発行

6.   わたしたちの愛称標識なまえとその由来 篠原地区愛称標識設置委員会 令和元年3月発行

7.   東海道五十三次を歩く3 歴史街道ガイド 児玉幸多氏著 1999年発行

8.   浜風会会報 しのはら歴史便り 第6号 平成171月発行

現在の舞阪駅前北口