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馬郡探訪03 「遠州屋伝兵衛II」(遠州屋新兵衛と尼屋伝次郎)

前回、表題にある3名のことを調べましたが、新たな情報を得ることができたので今回もさらに深掘りしたいと思います。

江戸末期・明治前期の国学者に榊原芳野という人物がいます。当時は名の知られた方だったようで、いろんな方が伝記を残されています。実は、榊原芳野は遠州屋新兵衛の孫にあたります。

昭和になってから芳野の伝記を手掛けた玉林晴朗氏の「国学者榊原芳野の話」『伝記聚芳』に遠州屋の系図とそのルーツが載っていました。系図を見れば一目瞭然なのですが、筆者自身わかっていなかったことが少しずつ見えてきました。

 

そこでわかったことは、

  榊原芳野は天保三年(1832)江戸日本橋住吉町に生まれる。父正之助、母みちの第一子。祖父新兵衛は小舟町で有名な大店、鰹節問屋遠州屋本家の主人。先祖は浜松から江戸に出る。

  新兵衛と尼屋伝次郎は兄弟であり「榊原」姓であること。また、伝兵衛とは義兄弟の関係であること。

  「江戸買物独案内」のそれぞれの店のロゴマークが類似しているのは親族関係のためであること。

  系図の最初にある遠州屋與兵衛は紀州熊野の生まれで、遠州屋に養子に入ったもので妻は家付きの娘で、さらにこの家の先祖は元禄宝永の頃(1700年前後約10年単位)に遠州浜松から江戸に出てきた人だったとのこと。

  與兵衛の子新兵衛が本家を継いだが、文化12年(1815)にしげ・正之助の二児を残して2728歳(以後、便宜上28歳とする)の若さで没していること。

  この時、しげは67歳、正之助は45歳の幼児で、商売を継ぐことが出来なかったため、鰹節問屋を継ぐ事ができる人を二代目新兵衛として養子に迎えている。ただし、この人の代で本家である遠州屋は没落していること。

  遠州屋新兵衛の長男正之助が青年に達した天保の頃には遠州屋は大分傾いていた。正之助は俳諧、和歌、絵画の道に優れており、その後迎えた妻も同じような道に優れていた。天保3年(1832)に芳野が生まれたが、生家の遠州屋の没落で援助が絶えており、夫妻は自分たちの持っている芸の俳諧和歌を教えたり絵画を売ることで生活の糧にしている。

  初代新兵衛は文化12年(1815)に28歳で没したので逆算すると生まれたのは天明7年(1787)頃となる。一方、尼屋伝次郎は寛政末(1800)頃に浜吉組創立に加わっていることから、すでに独立しているものと考えられる。このことからも伝次郎は長兄でその後本家を継いだ新兵衛は末っ子だと思われる。    

  遠州屋伝兵衛家も二代目伝兵衛の時代に絶家しているが理由は不明。

  遠州屋新兵衛は文化12年(1815)に28歳で没しているため、新兵衛が稲荷神社に灯籠を寄進した文化2年(1805)は18歳だったことになる。遠州屋伝兵衛と尼屋伝次郎が文化13年(1816)に稲荷神社に鳥居を寄進しているが、新兵衛はその前年にすでに亡くなっていたことになる。

  「江戸買物独案内」が文政7年(1824)に刊行され、三家が揃って掲載されているが、新兵衛没後9年を経過しており掲載の新兵衛は二代目の可能性が高い。

  尼屋伝次郎家は、二代目は養子をとりさらに三代目に継ぎ、明治以後まで続き榊原を名乗る。

  玉林晴朗「榊原芳野の話」(昭和12年)の記述。「尼伝の方は其の後も栄えて居り、尼伝から又分かれた尼何々と云鰹節問屋は幾軒もあった。今尼伝の家は鰹節問屋をして居ないが、其の後継者はあり、矢張り榊原を称している。」

  明治14年(1881)榊原芳野50歳。一月発狂して文部省を辞す。中根岸に幽居。122日病没。(芳野の人生についてはここでは触れない。その生涯は榊原芳野伝覚書き・高木まさき)を参照されたい。ネットから入手可能。

 

ここまでが資料から引用した内容になります。

玉林晴朗氏は「系図をそのままではかなり煩雑になるので、そのうち必要な部分だけを整理して抜粋したものを掲げる」と書いています。伝兵衛や尼屋伝次郎のことがもう少し触れられていたのか気になるところですが、今はそれを確認する術はなく少々残念です。

 

正直にいえば、筆者の想像とは異なるものでした。

新しい事実が判明するとまた新しい謎が生まれるものですね。はっきりとわからない部分については想像力を働かせるしかなく、これ以降は筆者の仮説または想像になるのですが少しだけお付き合いください。

 

江戸時代の平均寿命は3540歳程度、江戸末期でも45歳程度とされています。ただ、はしかなどにかかり大勢の子供が亡くなった時代で平均寿命が下がった背景もあり、平均寿命より長生きされた方も多かったのではと思われます。灯籠や鳥居を寄進するほどの人であれば、40代から50代だろうと勝手にイメージしていましたが、新兵衛が稲荷神社に灯籠を寄進したのが18歳。父の與兵衛の働きかけがあった可能性もありますが、当時の成人年齢は男子が15歳頃、女子が13歳頃だったようです。平均寿命が短かった当時の18歳は立派な大人であり、独り立ちする年齢だと当たり前に認識されていた時代だったのかもしれません。

筆者が18歳の頃といえば、チコちゃんに怒られそうですがボーッと生きていましたのでお恥ずかしき限りです。

では新兵衛が18歳だったとき遠州屋伝兵衛や尼屋伝次郎はその当時何歳くらいだったのでしょう。

記録がないので類推するしかありませんが、歴史人口学の研究成果によれば、江戸時代中期の平均初婚年齢は、男性1728歳、女性1422歳くらいだと言われています。幅があるのは地域差がかなり大きいためです。

父親の與兵衛は遠州屋に養子で入っており、長兄伝次郎と弟の新兵衛が違う母親とは考えにくく同じ両親から生まれたとすると10歳は離れていないでしょうから伝次郎は20歳代前半か半ばかと思われます。伝兵衛の妻は伝次郎の妹であり新兵衛の姉です。伝兵衛もまた伝次郎と同程度の年齢だったのではないかと推察します。

この1020代の若者達が江戸の大店である鰹節問屋を店主として切り盛りしていたことになります。

もう一つ疑問が残ります。なぜ長男が本家を継がなかったのでしょうか?筆者自身、親に言われた訳ではないですが、家は長男が継ぐものだと刷り込まれてきた印象があります。

では江戸時代はどうだったのか?確かに武士の世界では長男が家を継ぐのが普通でしたが、商人の世界ではどうも違っていたようです。生まれた順番に関係なく一番優秀な者に店を継がせていたようです。息子達が優秀でなかったら娘に優秀な婿をとって店を守ったとのことです。

ただ、それも明治時代にできた民法により、遺産相続の方法で、「戸主(こしゅ)」が隠居や死亡をした際、長男が全ての財産、および戸主の地位を相続すると決められました。商人達は大反対したそうです。

 

遠州屋の場合がどうであったかはわかりませんが、本家分家の違いはあるものの兄弟全員店主になっており、養子を入れることで店の存続を図っていることからも、優秀な者に跡を継がせるとの考え方はあったのだと思われます。

 

もう一つ意外だったのは、遠州屋が浜松から江戸に進出したのは伝兵衛らの時代ではなく、それより100年も前のことだったことです。

遠州屋新兵衛と尼屋伝次郎のふるさとは浜松(馬郡)ではなく江戸ということになります。江戸出身の新兵衛が稲荷神社に灯籠を寄進したのが文化2年(1805)。大般若経600巻が馬郡観音堂に奉納されたのは文化3年(1806)です。江戸の商人達への勧進活動はそのずっと前から行われていたはずですし、遠州屋のルーツが浜松であれば親族が馬郡・坪井地区にいたとしてもおかしくありません。かつ鰹節等の海産物問屋として馬郡・坪井地区との関係強化や商売繁盛を祈願するために灯籠を寄進したのでしょうか。

憶測ですが、もしかすると義兄弟にあたる遠州屋伝兵衛は馬郡出身者だったのではないでしょうか。故郷への思いもあって最初に馬郡にある春日神社に灯籠を寄進し、新兵衛が亡くなった文化12年(1815)の翌年に義兄の伝次郎とともに稲荷神社に鳥居を寄進したのは、若くして亡くなった新兵衛への供養と残された本家の家門繁栄を願っての寄進だったのではないかと、そう思えてなりません。

 

遠州屋が榊原姓であったことはわかっています。榊原姓は馬郡や坪井に多いことから、遠州屋がどちらかの地域をルーツにした一族であることは間違いなさそうです。

 

遠州屋伝兵衛、遠州屋新兵衛、尼屋伝次郎を追いかけた江戸へのタイムトラベルもそろそろ終わりにしようと思いますが、ここまでの情報を得るのに、平成26年(20141113日に浜風会が作成した「篠原の歴史講座 江戸の鰹節問屋 遠州屋伝兵衛と尼屋伝次郎を探る」のレポートが凄く参考になりました。レポート作成者や情報を提供していただいた皆様には感謝の言葉しかありません。

 

そして、このレポートの情報源である参考資料(現物)が無性に読みたくなったのですが、入手困難な書籍ばかりで、唯一古本屋で見つけたのが、「国学者榊原芳野の話」『伝記聚芳』(日本青年教育会出版部)でした。昭和17年(194235日発行、当時の定価で2円です。82年も前に出版された本が古本屋にまだ残っていたとは。浜松の図書館にも保管されていない本が古本独特の歴史の匂いを感じさせながら今我が家の書棚?にあることが奇跡のようです。

 

参考文献

1.   「篠原の歴史講座 江戸の鰹節問屋 遠州屋伝兵衛と尼屋伝次郎を探る」
 平成26年(20141113日浜風会作成

2.   「国学者榊原芳野の話」『伝記聚芳』(日本青年教育会出版部)

   昭和17年(194235日発行
※同じ内容で先に昭和12年(1937)雑誌「伝記」にも発表されています。

 

※氏名について、遠州屋傳兵衛、尼屋傳次郎とした方が正しいかと思いますが、現在使用されている「伝」の字に揃えました。ご容赦願います。